9世紀はじめ、ジャヤーヴァルマン2世がカンボジアを再統一し、都にヒンドゥー教の大賢者を招き、カンボジアを永遠にジャヴァの宗主権から解放して、国王を唯一の統治者とする神王崇拝を確立した。その約40年後、ヤショーヴァルマン1世は、神王崇拝の思想に徹し、神の世界の中心にメール山(須弥山)があるように、都の中心には神王のための山上の寺院が必要と考え、プノン・バケンの山上に神殿を構築した。また、僧院を建設し、国民の宗教的・精神的高揚をはかった。
10世紀後半、王室のヒンドゥー僧ヤージニャヴァラーハは、幼少の王ヴァルマン5世の摂政となり、あのバンテアイ・スレイを建築した。
11世紀初頭、王位継承争いの中、スーリヤヴァルマン1世が国内を平定し、初めて大乗仏教を導入し、仏教寺院としてピミヤナカスを建築した。11世後半には、ヒンドゥー僧ディヴァカーらの裏切りにより、王家に血のつながりのない豪族が王位を奪取し、ジャヤーヴァルマン6世を名のった。
12世紀前半、スーリヤヴァルマン2世によって国内が統一された。彼は、寺院や神殿の建造に非常に興味を持ち、アンコール・ワットを建設した。12世紀後半、熱心な大乗仏教徒であった(タ・プロムの石碑より)ダラーニンドラヴァルマン2世の没後、国内は大いに乱れ、1177年には、チャンパの大軍に都を焼き払われてしまうが、1184年に即位した中世最大最強の王ジャヤーヴァルマン7世の手によって、1190年、チャンパは倒され、政権は取り戻された。このジャヤーヴァルマン7世については、他王に比べ、彼の生い立ちや業績を伝える石碑文が多い。彼は父王の命令で、若くしてチャンパに遠征し、この地で青年時代を過ごしたようだ。数十年後、彼は父王の死を聞いて急遽帰国したが、祖国の王位争いを避けるため18年 間隠忍自重して、60歳前後で王位に就いている。彼は外交や用兵の術に長け、一国と戦争するときは、他国と中立を結び背後の危険をなくした。また、大乗仏教徒であったこともあり、アンコール・トムをはじめ、バンテアイ・クデイ、タ・プロム、スラ・スラン、タ・ソムなどを建造し、慈悲心にも厚く、民の病を自分以上に苦しみ、国内に病院や宿泊所をも設置した。
彼の死後は、それほどの活気はなかったものの、かなり繁栄を続けていたようだが、1431年ついにシャムの侵攻によって、アンコールは陥落した。まもなく、カンボジアの王子ポニャーヤットが、王位にあったシャム王子を殺して王位を回復したが、シャムのアユタヤ王朝からの侵攻を免れるため、アンコールを放棄して都をプノンペンに移した。