一人一人ではベトナム人より強いといわれながらも、内扮している間に他国の侵攻を受け弱体化の道をたどってしまった。もともとはカンプチアの州で、今でも100万から150万のカンボジア人がいるメコンデルタ(扶南、又はコーチシナ)は、17世紀以降、徐々にベトナムに植民地化され、第二次大戦後も戻ってこなかった。それゆえ、伝統的にカンボジア人はベトナムを嫌う。また19世紀には、北部シエヌリアップ州、北西部バッタンバン州はタイの支配下におかれ、その後、それらの州とともにカンボジアはフランスの保護国となった。とはいえ、豊かな国土に恵まれ、人々は飢えることなど一度もなかった。飢えはじめたのは、ベトナム戦争の影響を受けてからである。1969年アメリカはカンボジアに対して爆撃を敢行する。カンボジア国内に入り込んだベトナム軍を叩くためである。シアヌーク殿下は政府軍だけでは、進入しつつあるベトナム軍に対処できないため、アメリカを引き入れたのだ。翌年アメリカ軍がカンボジアに侵攻。シアヌーク殿下が外国に出ている間に、ロン・ノル将軍がクーデターをおこし、親米政権が樹立される。ベトナム国境付近の農民たちは、戦争に巻き込まれるにつれてすぐに難民と化し、プノンペンに溢れかえった。およそ150万。食料は不足し始めた。穀倉地帯の農民が都市に溢れているのだ。
そこで立ち上がったのがポル・ポトだった。既存の社会を完全に破壊してしまうことでカンボジアを再建しようとして、学校、教会、仏教寺院など、あらゆる組織や制度を打ち壊した。財産の私有は禁じられ、貨幣さえ廃止された。プノンペンの街路には価値のない紙幣が舞っていた。
アメリカは航空機による輸送を開始した。すでに都市以外では、クメール・ルージュが村を組織し、力を貯えていた。貧農たちは、これら政権の下、搾取される対象でしかなかった。政府の高官たちは腐敗し、農民たちを顧みず、自らの財産を貯えることしか考えていなかった。
政府軍とクメール・ルージュとの戦いが始まった。血みどろの殺し合いである。双方とも捕虜は惨殺した。こうした戦いが続く中、政府軍が後退、敗北を続けるのは、政府内部で私的闘争があったからだといわれている。みな自分のことしか考えていなかった。
人々はクメール・ルージュの恐ろしさを脱走してきたものから聞いてはいたが、まさか同じ民族にそんな事はしないだろう、と楽観していた。1975年4月17日、ついにプノンペンは陥落する。カンボジア・ゼロ年。市民は平和の到来に喜んだ。最高の位を持っていた僧フーオッ・タットの演説を聞き、政府軍兵士は投降した。みな疑うことなく、長かった戦いの終結を信じてパレードが自然に起こった。
情報省からの演説のあとフーオッ・タットは虐殺された。政府軍将校、兵士たち、また閣僚もどこかに連れて行かれ、殺された。
人々の強制疎開が始まった。プノンペンは一夜にしてもぬけの殻となった。
民主カンプチア(クメール・ルージュ)がこのような行動に出たのは、徹底的に農民が主人公である平等社会を造りあげるためである。彼らにとって、貧農たちを顧みなかった知識階級は、西欧文明に毒された腐った部分であって、切り捨てるしかない部分だった。自分たちの行動を偉大な実験と位置づけ、国家の独立、強い国家を目指した。「我々には100万から200万の若者だけで十分だ。」古い考えを持った人間はいらないというわけである。
ともかく、強制移住の際、体力のない老人や子供・病人はことごとく倒れていった。堤防や森林を開墾する強制労働も辛いものだったが、なによりも食料をクメール・ルージュがすべて取り上げてしまい、塩と米だけで生きなければならなかった。また、喋る事もできなかった。村に潜入している子供のスパイが家の床下で聞き耳を立てていた。また知り合いに会うのも恐かった。自分の過去が政府関係である事がばれた場合、待っているのは死だけである。いつも死の恐怖が付きまとっていた。
1978年のクリスマス。ベトナムはカンボジア侵攻を決意する。クメール・ルージュはメコンデルタ奪回のため大規模の侵入を繰り返し、ベトナム人50万が難民化していた。ベトナムの外交的努力も空しく終わった。
このときポル・ポト派追放劇の立て役者となったのが当時26歳のフン・セン氏だった。当時ポル・ポト派の地方幹部で、ベトナム近辺に駐留していたフン・セン氏は、自分たちにどこかで不信感を抱き、粛清までしたポル・ポト派を嫌い、身の危険を感じたこともあってベトナムにポト派追放の手助けを要請したのだった。 1979年1月7日、プノンペン陥落。クメール・ルージュは、アメリカを打ち負かしたベトナム軍の敵ではなかった。彼らはタイ国境まで追われて、そのまま壊滅する運命にあった。だが、社会主義のヘン・サムリン政権を認めない西側諸国とベトナムを恐れるASEAN諸国の力で命を長らえた。
カンボジア国民はひどく飢えて貧しくなっていた。そのため、政府は税金を課けることもできなかった。クメール・ルージュの支配した3年8ヵ月20日の間に少なくとも100万の人々が殺され、飢えに倒れていった。
これで平和が訪れたかというとそうではなかった。シアヌーク殿下はフン・セン氏の勢力をベトナムの傀儡だと非難し認めず、「カンボジアを植民地にしてはならない」と主張。ラナリット氏はフン・セン派に武力で挑んだ。ここに12年に及ぶ内戦が始まる。
1989年、ベトナム軍撤退。
1989年、パリ和平会議開催。
1991年、過去最大規模のPKOにより、ようやくポル・ポト派を含めた紛争4派がパリ協定に調印し、国際監視下での「国民平和」をめざした。その結果、シアヌーク殿下が亡命先の北京から帰国し、盛大に歓迎された。
1992年には、国連カンボジア暫定統治機構が設置される。
1993年、選挙により議員が選ばれた。投票率は90%以上。同年、新憲法を採択。選挙は内戦時代カンボジア全体を掌握し、地方末端に至るまで勢力を握っていたフン・セン氏と父シアヌーク殿下の圧倒的な国民人気を背景とするラナリット氏との戦いだった。結果はラナリット氏が僅差で勝利。しかし、フン・セン氏はこれに納得しなかった。そこで、シアヌーク国王が王位に就き、第一・第二とふたりの首相のいる政府を樹立。これはシアヌーク国王の提案でもあった。「カンボジアが死なないための苦肉の策だ」と言っている。そして、これがカンボジアの不安材料でもあったのだ。軍事力で圧倒的な不利にあったラナリット氏。今まで勢力を持っていたのに、小勢力のラナリット氏と政権を分かち合わなければならなかったフン・セン氏の屈辱。それでも即席の平和が訪れた。
また、この年にPKO終了。しかし、親ベトナム色の強い人民党を敵視する、反ベトナム急先鋒のポト派(クメール・ルージュ)は選挙をボイコットし、いまだ闘争を続けている。ここに「和解の構図」は崩れた。
1996年8月、ポル・ポト派のナンバー2で、長年の親友でもあり義弟でもあったイエン・サリが離脱。ポト派の兵力は約3000人に減ったといわれている。今、カンボジアはゆっくりと静謐を取り戻そうとしている。