内戦勃発



ラナリット第一首相とフン・セン第二首相
 1997年2月以降、翌年5月の総選挙をにらんで、カンボジア連立政権の支柱である二大政党が対立姿勢を鮮明にしている。ラリナット第一首相率いる第一党のフンシンペック党が非合法政党であるクメール国民党(ポル・ポト派)などとの政治連合を結成したのに対し、フン・セン第二首相の第二党カンボジア人民党(CPP)も少数政党との提携を開始したのである。

 ここで70年代末から80年代末までの内戦時代に少し言及すると、ヘン・サムリン政権(現・人民党)に対抗して、フンシンペック党(シアヌーク国王)とポル・ポト派とソン・サン派(現・仏教自由民主党)が三派連合を結成し、同政権と争っていた。そして、ヘン・サムリン政権をベトナムとその背後にいたソ連が支援し、三派連合を中国・ASEAN諸国・米国・日本などが支援していた。つまり、この内戦には冷戦と中ソ対立が強く反映していたのである。

 要は、もともとフンシンペック党(ラナリット第一首相)と人民党(フン・セン第二首相)は敵対関係にあったわけで、国家再建への危機感から連立政権をくんだにすぎなかった。だから、ポル・ポト派の自壊が進み、国家再建がある程度成功したとたんにこういうことになってしまうのである。一部の地域では武力紛争まで起こる始末。平和の意味を考えさせられる。ちなみに、ラナリット第一首相が今の地位にあるのは、シアヌーク国王の息子だということも大きい。どちらかというと、フン・セン第二首相の方が政治的手腕はあると思う。

 現在のカンボジア政府は1993年に国連監視下の総選挙で誕生した。実際にはフンシンペック党がわずかの差で人民党を押さえて勝利したのだが、人民党は「不正があった」として、この結果を認めず、約4ヶ月にわたる紆余曲折の末、シアヌーク国王の下、二人首相制度という暫定的な変速措置で決着した。つまり、全政党が与党となる「翼賛体制」が生まれたのである。その結果、国会は議論の場ではなくなり、民主憲法を持ちながら、民主的な手続きで問題が解決されず、武力に訴える内戦時代の感覚が残ってしまった。また、この新政府については、シアヌークの流れをひくフンシンペック党は第一党となったが、郡や行政機関に権力機関を持たなかった。一方、人民党は第二党でありながら国土の8割を実効支配し、軍や中央・地方行政機関を握り、兵力も10万人のうち約7万を占めていた。人民党の方が圧倒的に有利だったのである。そして、このフンシンペック党の「弱さ」と「焦り」こそが、自壊目前のポル・ポト派取り込みの理由だった。

 1997年6月17日、とうとう、フンシンペック党と人民党がプノンペン中心部で銃撃戦を展開するに至った。前述したように、来年5月の選挙を前にポト派を取り込もうと投降を呼びかけていたフンシンペック党と、ポト派の指導者すべてを逮捕して裁こうと主張する人民党との考えの対立がそこにはあった。

 このような背景から、フン・セン第二首相(人民党)は再び、反人民党連合ができることを警戒している。そんなときにポル・ポト氏の身柄が拘束されたと報じられた。

 ポル・ポト氏は、イエン・サリの離脱後、北部のアンロンベンを拠点に武力闘争を続けていた。今年に入って、フンシンペック党がポト派と帰順交渉を行い、部隊の大半が政府側に帰順する動きを見せたのに際し、ポト氏はソン・セン元副首相らを処刑し、キュー・サムファン氏(ポト派暫定政府首相。同じポル・ポト派だが、穏健派で、ポル・ポト氏とは対立し、帰順交渉の立て役者だった)を人質に本拠から逃走した。こうして、孤立してしまっていたのである。

ポル・ポト氏

 6月22日、そのポル・ポト氏の身柄拘束が、ラナリット第一首相とフン・セン第二首相との共同会見で明らかになった。キュー・サムファン首相も一緒に発見されたという。ポル・ポト氏は一部では、腕に点滴をつけたまま兵士にハンモックで運ばれ、酸素ボンベも携帯しているほどの重体だと伝えられているが、その健康状態について会見では「知らない」と答えられた。いずれにせよ、ポト派の離脱部隊が拘束しているポル・ポト氏をプノンペンなど安全を確認できる場所に輸送すべきである。

 一方、ポル・ポト派は組織を解体し、新たに「民族救国運動」と名乗り、「ポル・ポト氏への支持をやめ、現行カンボジア憲法を遵守し、シアヌーク国王の唱える国民和解政策を支持する」という声明を宣言する予定だったが、そうではなく「フン・センは悪の根元で、3月の爆弾テロの首謀者であり、ラナリット氏を暗殺して権力を独り占めしようとした」といい、フンシンペック党のラナリット第一首相寄りの姿勢を明確にした。ラナリット氏とフン・セン氏は、過去の対立を棚上げしてポト派問題に一致して取り組むと表明していたが、これで問題の早期解決に影を落とす可能性が高くなった。

 このように不安定になっているカンボジア情勢について、デンバー・サミットに参加している8カ国首脳は、政治的安定や民政秩序の確立などを指導者に求める声明を発表した。また、事態収拾のために、日本からは今川幸雄前カンボジア大使を、旧宗主国であるフランスからも特使として外務省のクロード・マルタン事務次長を派遣し、ラナリット第一首相とフン・セン第二首相の調停に当たった。米国のオルブライト国務長官も香港返還式典に先立って、28日にカンボジアを訪問する予定であったが、治安悪化を理由に訪問を中止した。オルブライト氏は米ABCテレビとのインタビューでポル・ポト氏を「虐殺の責任者であり、重要な戦争犯罪人だ」と述べ、国際法廷の設置を強く要求しているが、この直前の訪問中止はこのことに大きく影響すると思われる。

 ところで、カンボジア両首相はポル・ポト元首相を裁くため、国際法廷の設置をアナン国連事務総長に訴えている。(この「見解の一致」にはASEANへの正式加盟が絡んでいるが、それについては後述。)国際法廷の設置には明確な基準や手続きなど存在しないが、これまでの「旧ユーゴスラビアの民族浄化」や「ルワンダでの大虐殺」は『世界の平和と安全に対する脅威』と認定されることで、国際法廷が設置され、決議された。しかし、今回のカンボジアにおける国際法廷は、
 @問題となっているポル・ポト氏らによる大虐殺が20年以上も前にさかのぼるため、法廷として成立するのか、
 Aポル・ポト元首相が過去を暴露すれば、かつてそれを支援していた中国やタイを中心とする西側支援国(日本も例外ではない)も責任を問われかねない、
 Bかつてポル・ポト政権の幹部だったフン・セン第二首相以下、人民党の指導者の一部をも裁く必要性から、政治的打撃を与えかねない。また、シアヌーク国王も退位を免れなくなる可能性がある、
 C以前、国王の恩赦を得て政府と和平合意したイエン・サリ氏を国際法廷に引き出すのは、国内の政治問題になりかねない、
 Dポト派離脱部隊が被告に含まれると、ポト氏の身柄引き渡しや離脱部隊の帰順交渉に影響が出る、
などの問題をはらんでいて、一筋縄にはいかないと思われる。

 さて、相対立するラナリット第一首相とフン・セン第二首相が会見で、唯一異論のない「虐殺者の責任を裁く」という点で強調して見せ、「和解」を演じ、国際社会に政情安定を印象づけて見せたのは、7月に控えたASEAN(東南アジア諸国連合)の正式加盟が絡んでいた。ASEAN有力国タイのチャワリット首相のカンボジア訪問歓迎式典が開かれた直後に、たまたま「ポト氏拘束」が伝えられた時、フン・セン第二首相はこれを「加盟間近のカンボジアからASEAN諸国への平和の贈り物」と語ったことからも、このことがうかがえる。ただ、「これでカンボジアが平穏になるとは思えない。政争のひとつの課程を通り越したに過ぎない。」という見方がASEAN内部で支配的で、さらに、ポト氏拘束で両首相の根深い対立が解けたわけではなく、来年の総選挙が近づくにつれて、緊張はますます高まるともいわれている。

 事実、日本の今川幸雄特使らがプノンペンを離れる前の6月28日には、ラナリット、フン・セン両首相が反政府勢力ポル・ポト派の扱いをめぐって非難合戦を始めた。7月3日、シアヌーク国王は両首相が協力しない限り問題は解決しないとして、和解を強調し、自らが仲介者になる意思があることを表明した。それでも同月5日、とうとう内戦が起こってしまい、かなりの死傷者が出た。その中に日本人(建設コンサルタント会社員・岡島隆正さん・38歳)が含まれていて、翌日亡くなった。この内戦は、フン・セン第二首相配下の軍隊がラナリット第一首相率いる民族統一戦線の軍事拠点(プノンペン近郊)を攻撃したことから始まった。先述したが、第一首相による自派兵力増強への強い警戒からである。


その後の状況(1997年の動向A)



 さて、ここでASEANに話を戻すが、ASEANは東西冷戦下の1967年に共産勢力に対抗する形で結成された。また、急成長する中国やインドと対抗し、東南アジア全体の投資環境改善を通じて発展を維持・拡大する狙いもある。現在の加盟国はタイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、ブルネイ、ベトナムの7カ国である。そして、今回進められているのが、ラオス、ミャンマー、カンボジアを加えた「ASEAN10体制」なのである。しかし、民主化の課題を背負うミャンマーとその陰に隠れていた世界最貧レベルのカンボジア。この2カ国が「政治的・経済的にASEANの発展の足かせになるかも知れない」ことをASEAN首脳が意識しだしている。

 カンボジアが直面している本当の危機は、ポル・ポト派ではなく「指導者の不在」である。1993年に国連の主導で行われた総選挙で誕生した連立政権は完全に分裂し、政府はますます腐敗し、無法化していくのであろうか。



1997年の目次
各国の対応
現代の歴史へ
ツール・スレーンへ
ポル・ポト派へ