1997年7月5日に始まった内戦は翌6日さらに激化した。
犠牲者は兵士より市民の方が圧倒的に多い。8日までに86人がタイ・ヘン・クリイ病院に運ばれ、そのうち兵士は10人だけだった。この時点で死亡者は10人。その中に岡島さんも含まれる。また、現場で死亡した場合は病院に運ばないので、全体の死体の数はわからない。
この内戦についてだが、ラナリット氏を排除して、主導権を握ろうと考えているフン・セン氏が明確な政治目的を持って軍を動かしたのは明らかであり、深刻でもある。軍事行動が本格化したとき、フン・セン氏は「休暇」のためベトナムに滞在していた。ベトナムは1978年にカンボジアに侵攻してポル・ポト政権を打倒し、その後押しによって出来た政権で長く首相を務めたのがフン・セン氏である。このつながりは軽視できない。ASEANはもともとベトナムなどの共産勢力に対する防波堤として生まれた。確かに、冷戦終結後ベトナムもASEANの仲間入りをしたが、今回のカンボジア政変にどの程度ベトナムが関わっていたかによってASEAN各国との関係に支障が出てくる可能性もある。
そのベトナムから帰国したフン・セン氏は、「ラナリット第一首相が多くの誤りをおかした結果、国家運営が難しくなった」と指摘し、第一首相を「裏切り者」と批判し、追放を宣言した。フン・セン氏は、それと同時に「私は第一首相になる考えはない。第一首相はフンシンペック党から出るべきである。」と強調し、「一国二首相」を維持する考えを示した。連立政権の枠組みを崩さなければ、ASEANも一度決定したカンボジアの加盟を見直すことはないだろうとの推測(実際はそうもいかないのだが)もあったのだろう。また、選挙結果は尊重しつつ、違法に武器を持ち込んで非合法化されたポル・ポト派と交渉したラナリット氏を追放して、社会秩序を維持しようとしただけで、これはクーデターではない、とも言いたかったのだろうか。
その一方で、危険を察知してかフランスに滞在していたフンシンペック党のラナリット氏は「第二首相のクーデターだ」として国際社会に違法性を訴えていたが、
それを尻目に人民党は勝利宣言を出した。人民党系部隊はラナリット第一首相の私邸やフンシンペック本部などをほぼ押さえて、ブンチャイ副参謀総長ら第一首相派の幹部ら三人について軍事法廷発行の逮捕状を出した。第一首相派のホ・ソック内務副大臣は第二首相派の兵士に逮捕された後、射殺された。事実上の「処刑」とみていい。北京で療養中のシアヌーク国王の提案した「即時停戦」も効果なく、フン・セン氏が権限を強化して、ここにとうとう連立政権の崩壊を迎えた。ガンといわれるシアヌーク国王にもはや調停の力はないのだろうか。
現在、政府軍約15万の総兵力のうち13万人をフン・セン第二首相派が握っていて、父シアヌーク氏ほどのカリスマ性のないラナリット氏を排除した。ラナリット氏がフランスで国際支持を得ようと世論に訴えかけても、冷戦時代とは違い中国やタイから強い支援は望めそうになく、亡命政権を樹立できる可能性も低い。人民党のフン・セン第二首相は圧倒的に優位である。しかし、フン・セン第二首相に対する批判が国際的に高まっているのも事実である。国連が導いた和平を武力で崩したという事実とラナリット首相派高官の処刑がその原因である。フン・セン第二首相率いる人民党はもともと共産主義政党で「敵」に対する粛正やテロをためらわない嫌いがある。人権意識の強い欧米諸国の間で批判が強まったのは当然ともいえる。特にアメリカは「フン・センは権力を掌握するために武力を行使した。そして、これはパリ和平協定の実質的な放棄である。」とフン・セン氏の軍事行動を強く非難した。それでも、フン・セン氏は今回の政変を「内政問題」だと強調している。確かに、フン・セン第二首相への国際的な批判の高まり、ASEANの加盟見直し論浮上、日本などからのODA( 政府開発援助)の凍結など国際的な逆風は強いかもしれないが、「武力介入や武力援助はない」と見極めた上で今回の力による決着を選んだ第二首相は政治家として優れた能力を持っているのかもしれない。実際、対カンボジア援助の停止については慎重な姿勢を示している。しかし、彼の公算が大きく崩れる事態が起こった。カンボジアのASEAN加盟延期である。