クメール・ルージュ(ポル・ポト派)

 シアヌーク政権下の1967年頃、ポル・ポト(本名サロト・サル)やキュー・サムファンら毛沢東思想を信奉するフランス留学経験者が組織した反政府武装組織をクメール・ルージュと呼んだ。彼らは、1970年3月のロン・ノルによるクーデターで追放されたシアヌーク殿下が呼びかけた反ロン・ノル闘争に参加し、闘争の主導権を握った。1975年4月に全土を制圧すると同時にシアヌーク派を排除して、翌年ポル・ポトを首相とする民主カンプチア政府を樹立し、過激な共産化政策を実施した。その課程で大量虐殺を断行した。詳細は歴史近現代を参照。

 権力を握る前のポル・ポト氏は、思慮深く穏やかで正直な人物だったといわれている。フランス保護領時代に裕福な農家に生まれ、誰からも愛される子供だった。ポト家は王家に娘を嫁がせるほどの富豪で、少年時代のポル・ポト氏は宮殿にはいることさえ許されていた。その後、フランス留学からの帰国後、50年代にプノンペンで教職に就いた。当時のポト氏は「弁は立つが気取りはなく、正直で人間味があり、尊敬を集める人物だった。」といわれている。しかしその頃には、彼はすでに熱心な共産主義者になっていた。

 1996年3月、ポル・ポト死亡説が流れたが、真偽は不明。8月、NO.2のイエン・サリの投降によって弱体化は必死。

 1997年6月、ポル・ポト氏の拘束が伝えられた。詳細は別頁参照。

 写真の一番右が政府側に投降してきた元ポル・ポト派の軍人。中国で修行して、痛みを感じないと言っていた。

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