エジプトレポート(情報ハプニング)  テロ直後のエジプトの状況

研究発表課題「古代エジプトの法理念」


ファラオ(王)から見た古代エジプトの歴史

 古代エジプトの歴史は紀元前3000年頃から紀元前30年頃までの約3000年という長い期間に存在しました。
 現在、私たちがこの古代エジプトを学ぶ際、「マネトーの『エジプト史』」に従って王朝別にみていくことになります。
 ここでは、ファラオ(「王」のこと)の順に歴史を見ていこうと思います。

アレキサンダー大王 クフ王 クレオパトラ ジェセル王 ツタンカーメン
トトメスV世  ナルメル王 ハトシェプスト女王 ラムセスU世
   (アイウエオ順)
 このファラオのうち何人を知っていますか。全部知っていたら、すばらしい。でも、5人以下なら、世界史の常識以下かも・・・

 紀元前4000年頃、上エジプトにバダリ文化がおこり、以後ナカダ文化が発展しました。一方、下エジプトではファイユーム文化、メリムデ文化、マーディ文化が次々と興こりました。紀元前3000年頃には、上エジプトに22、下エジプトに20の原始的小国家(後のノモス)が存在し、それぞれが地方神と旗標をもっていました。
 その後に上下2つの統一国家が誕生しました。この時期は、まだ王朝が誕生していなかったため、先王朝時代といわれています。

@ナルメル王
 紀元前2900年頃、ナルメル王により、古代エジプト全土が統一され、これをもって第1王朝の始まりとし、次の第2王朝とあわせて、初期王朝時代といいます。その時、製作されたのが「ナルメル王のパレット」(カイロ博の入った正面にある)。パレットというのは化粧板のことです。大きさから推測すると、記念に作られたもので、実際には使われなかったようです。パレットの表には赤冠をかぶったナルメル王が凱旋を行進する姿が描かれ、裏には白冠をかぶったナルメル王の敵(下エジプト)との戦争の図が描かれています。ナルメル王は上エジプト(カイロからアスワンまで)の統治者だったため、下エジプトとの戦い(裏)の時には上エジプトの象徴である白冠をかぶっていて、その勝利の後の上エジプトでの凱旋行進(表)の時には下エジプトの象徴である赤冠をかぶっているのです。ツアーなら必ず案内してくれると思いますよ。
 ところで、このナルメル王は実際に存在していたのかが議論の標的となっています。それは、「マネトーの『エジプト史』」をはじめ、アビドスの王名表などで、初代王はメネス王だとされているからです。これにはいくつかの説があるのですが、「ナルメル王=国家の基盤を作った歴代王の総称」で、「メネス王=国家を確立統一した王」だとするのが妥当な説でしょう。例えるなら、織田信長と豊臣秀吉がナルメル王で、徳川家康がメネス王となるのでしょうか・・・
 さて、「マネトーの『エジプト史』」にはいくつかの謎があります。ここでは、3000年間を30王朝で区切っているのですが、なぜか血縁継続中に王朝を断絶させているところがあるのです。有名なところでは、第3王朝と第4王朝。第3王朝最後のファラオ・フニ王は、第4王朝最初のファラオ・スネフェル王の父親なのです。なぜここで王朝を区切ったのか?もう一つの謎をあげておくと、第1王朝の誕生は実際には紀元前3000年頃なのですが、『エジプト史』では紀元前5800年頃となっているのです。

Aジェセル王
 第2王朝にジェセル王というファラオがいます。このファラオとき、エジプト史上初のピラミッドである「階段ピラミッド」(サッカラにある)が建設されました。この設計をしたのが宰相イムヘテプ(イムホテプとも呼ばれる。象形文字であるヒエログリフには母音がないため、色んな読み方ができる)です。こちらの方を知っているかもしれませんね。このピラミッドはマスタバ(簡単な墓)を積み重ねたものだというのが定説です。実際に中からミイラの足が発見されているので、墓に間違いはないでしょう。
 ここで、イムヘテプについて少しお話しします。「ジェセル王の治世、7年間ナイル川が氾濫せず大飢饉が起こったとき、当時クヌム神殿(ナイル川の水量調節はクヌム神の役割だと信じられていた)の神官だったイムヘテプ祈祷によってナイル川は再び氾濫し、大地が豊かに実った。」という経緯から、イムヘテプはジェセル王に宰相として登用されたのです。これは碑文として残っていて、アスワンのサーヒル島にあるので探してみてください。ちなみにイムヘテプは、天文学者や書記としても優れた才能を持っていて、特に医学についてはプトレマイオス時代に「医学の神」とされました。ファラオ以外では唯一「神」とされた人です。

Bクフ王

 まず、最初にクフ王の父・スネフェル王についてお話ししておくと、彼はピラミッドを5基建設しています。そこからもピラミッドは墓ではないといわれています。崩れピラミッド・屈折ピラミッド・赤いピラミッドは有名です。このうち、屈折ピラミッドと赤いピラミッドはダハシュールに位置し、ここは1996年まで軍事基地が近く、観光できませんでした。でも今は大丈夫。  さて、話を戻すと、ギザの三大ピラミッドといえば世界的に有名ですよね。順に、クフ王・カフラー王・メンカウラー王。全員、第4王朝のファラオです。クフ王のピラミッドは、外装石である石灰岩がはげ落ちているため、現在ではカフラー王のピラミッドより5メートルほど低いですが、当時は147メートルで一番高かったと言われています。クフ王のピラミッドは専門的には「第一ピラミッド」と呼ばれていて、内部の落書きから判断して、クフ王のものだと断定できます。内部やその建設方法は謎だらけですが、このピラミッドについては数多くの本でいろんな事が書かれているので、ここでは触れません。
 第一ピラミッドに関連させて「太陽の船」を挙げておきます。1954年、ピラミッドのそばの深い竪坑から大量の木材がカマール・マラーハにより発見され、1957年〜1971年にアハメド・ユーセフにより復元されたのが、太陽の船(第一の船)なのです。ピラミッドのそばにちょっとした博物館があるので行ってみてください。この船が展示されています。来世に向かうための思想上の船ですが、実際に浮かぶことが確認されています。もちろん模型で、ですが。1987年には「第二の太陽の船」が早稲田隊(吉村作治)によって発見されました。現在復元中ですが、この復元だけに一生かけていいほどのパズルのような作業です。
 話を元に戻すと、カフラー王のピラミッドは「第二ピラミッド」、メンカフラー王のピラミッドは「第三ピラミッド」と呼ばれています。しかし、この二つに関しては実際にそのファラオのものかわかっていません。意外に思われるかも知れませんが、一切証拠がないのです。だから、「第二」とか「第三」という方が正しいのです。
 さてさて、ピラミッドといえば、スフィンクスですよね。これについてはピラミッドと一緒に色んな説が語られるので、省略します。そこで、ここでは「夢の碑文」についてお話ししましょう。スフィンクスを思い出してください。両前足の間に碑文が建っているのを知っていますか?あれのことです。これは後の時代にトトメス4世が後から建てたものです。内容は「スフィンクスのそばでうたた寝していたトトメス4世は、スフィンクスが『首まで砂に埋まって苦しい。砂から出してくれたら、あなたをエジプトの王にしてあげます。』と言う夢を見て、砂を除去しファラオになった。」というものです。一説には王位略奪の口実だともいわれています。また、ここから、スフィンクスが砂漠の砂に埋もれていたことも知ることができます。実際、「ヘロドトスの『歴史』」にはスフィンクスの記述が全くないため、これが書かれた紀元前5世紀には砂に全く埋まっていたと考えられています。ちなみに、このトトメス4世のミイラはカイロ博物館のミイラ室に展示されています。
 ちなみに、「朝4本、昼は2本、夜3本で歩く動物は?」と旅人に訪ね、答えられなければ食べてしまうスフィンクスを知っていますか?あれはギリシャ神話に出てくる雌のスフィンクスで、エジプトのスフィンクス(雄)とは似て非なるものです。古代エジプトのスフィンクスは知勇を兼ね備えた尊厳ある対象なのです。
 さて、もう一度クフ王に話を戻すと、「クフ王の座像」がカイロ博物館に展示されています。カイロ博で最小の展示品です。これは彼の実像を伝えるものとしての意義をもっています。

 古王国時代は第3王朝(紀元前2650年頃〜)から始まり、第6王朝(〜紀元前2200年頃)まで続きます。クフ王の時代は第4王朝。第5王朝の最後にはウナス王が君臨していて、この王によって初めて、ピラミッド内にヒエログリフが刻まれました。これを「ピラミッド・テキスト」といいます。第6王朝の終わり頃、つまり古王国時代の終わり頃、「イプエルの教訓」からも推察できるように、国内は混沌としていて、王(ファラオ)も次々と交替していきました。
 その後、このまま第一中間期(第7〜11王朝)へと突入していきます。群雄割拠の時代がしばらく続きます。
 紀元前2040年頃、メンチュヘテプ2世によってようやく全国再統一がなされ、中王国時代が始まります。第11王朝の頃です。交易・宗教・文学において少なからず発展を遂げましたが、この時代は世界的にも群雄割拠の時代であったため、紀元前1680年頃、ヒクソスという謎の民により、エジプトは全土を占領されてしまいました。こうして、エジプトは異民族支配による暗黒時代が始まります。この時代を第二中間期と呼びます。
 この異民族の占領に反旗を翻したのが、セケネンラー2世。彼は戦いに敗れますが、その息子カーメス王とイアフメス王によって、再び全土が統一されました。ここに新王国時代が華々しく幕をあけることになります。第18王朝、紀元前1565年頃のことです。

Cハトシェプスト女王
 ハトシェプスト女王は父トトメス1世をとても尊敬していたようで、彼を讃えるものが多く残っています。そのトトメス1世の次のファラオ・トトメス2世が意志薄弱だったため、この頃から彼女は政治力を持ち始めたと考えられています。ハトシェプスト女王は、トトメス1世の娘で、トトメス2世の妻で、トトメス3世の義母なのです。ややこしいかも知れませんが、当時は近親相姦の嵐です。それについては後述します。
 紀元前1505年頃、当時6歳だったトトメス3世が王位に即位し、その後見人として台頭してきたのがハトシェプスト女王だったわけです。つまり、「女王」とはいっても実際にファラオとして君臨してたわけではないのです。その証拠に彼女の記録は常に「トトメス3世治世〜年」と刻まれています。また、女王の壁画や像はすべて男性の姿をしているため、ずっと男性だと思われていました。さらに、傀儡にされていたトトメス3世は彼女を嫌い、実際に権力を握った後、壁画中の女王の姿はすべて削りとってしまいました。彼女の名は王名表からも抹殺されています。女王として存在が認められるには、シャンポリオンのヒエログリフ解読を待つことになります。
 さて、「ハトシェプスト女王葬祭殿」はご存じでしょうか。97年12月に日本人がテロで射殺された場所として、一気に有名になったかも知れません。名前くらいは聞いたことがあると思うのですが、ルクソール(当時のテーベ)西岸のディール・アル=バハリにあるテラス式の葬祭殿です。彼女の誕生から即位までの壁画があるので探してみてください。壁画の女王の姿は削り取られていますが、それは先述したとおりです。この葬祭殿は、「王家の谷」の表に位置し、実際の墓を隠す役割も果たしています。「ついたて」のような役割といえばわかりやすいかな。最初見たときは、きれいに残りすぎていて作り物みたいな気がしました。

Dトトメス3世
 トトメス3世は紀元前1482年頃、実に治世23年目、29歳にしてようやく単独政権を握ることになりました。彼はそれまでのハトシェプスト女王の政策をすべて否定しました。その最たる例が17回に及ぶ軍事遠征です。これはハトシェプスト女王が平和政策をとっていたことに対抗しているのです。
 ハトシェプスト女王の記録を抹消したことはすでに述べましたが、その一例としてカルナック神殿のオベリスクを挙げておきます。ここにはトトメス1世とハトシェプスト女王が建設したオベリスクが1本ずつ建っています。しかし、なぜかハトシェプスト女王の方だけ、まんなか半分からくっきり色が変わっているのです。これは、トトメス3世の仕業なのです。彼としてはオベリスクさえも破壊してしまいたかったのでしょうが、オベリスクは「天をさす神(現地人は「ホルス」と言っていた)の指」、つまり「神」だったため壊せなかったのです。そこで、人目に触れないよう、オベリスクの周りに壁をつくって隠してしまいました。ただ、上部だけは太陽に当たるため、日に焼けて白くなってしまったのです。面白いでしょ。

 その後、アメンヘテプ2世、トトメス4世(先述した「夢の碑文」のファラオです)と続き、アメンヘテプ3世の時代を迎えます。この時代、対外関係が重要化したのか、彼は王妃にティイ(おそらくミタンニ人)を迎えています。アメンヘテプ3世は治世5年目のヌビア遠征を最後に、マルカタ王宮で享楽のみを求め、表面的に最大の栄華を誇ることとなります。しかし、そのせいもあって、王妃ティイが政治の実権を握っていたと考えられていて、その証拠に彼女の親族(兄のティイなど。後述)も出世しています。ちなみに、アメンヘテプ3世の宰相はハプの子アメンヘテプ(4大賢人の一人。他は、イムヘテプ・ヘムオン・カエムワセト)、晩年の王妃はネフェルティティ(クレオパトラがいなかったら、美人の代名詞になっていたのはネフェルティティだったかも知れないともいわれています)です。彼の葬祭殿跡には「メムノンの像」しか残っていません。
 次のファラオがアメンヘテプ4世、つまり、イクナテン(イクナトンともアクエンアテンとも呼ばれます)です。彼はアテン神信仰を成し遂げ、アマルナ芸術を生み出した偉大なファラオです。新都はテル・アル=アマルナで、カイロとルクソールの間に位置しています。ここは、結構陸路が危険なので、僕も行ったことがありません。ネフェルティティは彼の王妃でもあり、次の王スメンクカーラーだとする説もあります。

Eツタンカーメン
 「え?」と思うかも知れませんが、ツタンカーメンの名は王名表に刻まれていません。つまり、存在を抹消されていたのです。その理由は、アテン神信仰の時代だったからです。アメン神が中心だった時代に、アテン神を信仰したファラオは邪魔なだけだったのです。歴史とは常に勝者の歴史なのです。ツタンカーメンはアテン神からアメン神に改宗したファラオでもあったわけですが、治世2年目、当時12歳だった彼にそんなことができるはずもなく、これは宰相だったアイ(次のファラオで、ティイの兄)によるものだったといわれています。こうして、トゥト・アンク・アテン(ツタンカーテン)からトゥト・アンク・アメン(ツタンカーメン。「アメン神の生きる似姿」の意味)に改名することとなったのです。また、このころ(紀元前1344年頃)、ネフェルティティが他界しました。
 さて、治世8年目、彼は暗殺されました。18歳頃です。そのツタンカーメンの存在についてですが、ハワード・カーターによる王墓発見まで、全く確認されていなかったわけではありません。王家の谷で発見されたいくつかの遺物にツタンカーメンの刻印があったため、存在だけは確認されていました。そして王墓発見へとつながるのです。発見当時は、彼のミイラには110キロもする「黄金のマスク」(現在の価値で300兆円と言われています)がかぶせられ、それが三重の人型棺に納められ、さらにそれが三重の厨子に納められていました。また、ツタンカーメン王墓で発見された宝物はほとんどカイロ博物館に展示されています。ただ、ツタンカーメンは今でも王家の谷に眠っています。第一の人型棺の中で、ミイラは誰の目にも触れることなく・・・
 発見当時、アンテセナーメン(后)が彼のミイラに添えた矢車菊は黄金に輝く財宝よりも美しかったというのは有名な話です。
 ここで宝物について少し述べたいと思います。先述したアマルナ芸術についてですが、「太陽神アテンを礼拝するイクナテンとネフェルティティのレリーフ」「ネフェルティティの胸像」「黄金の玉座」を挙げておきます。アマルナ芸術の特徴は写実主義で、活々として生活感あふれる壁画や彫像が多いことです。「太陽神アテンを礼拝するイクナテンとネフェルティティのレリーフ」は彼ら2人とその子供に太陽光線が降り注ぐ姿が描かれたレリーフです。この太陽がアテン神を表し、「子供」というのがアンテセナーメン(後のツタンカーメンの后)なのです。そして、この子が王位継承権を持っているのです。つまり古代エジプトにおいての王位継承権はファラオの娘が持っていたのです。男として生まれてもファラオにはなれず、ファラオの娘(多くは自分の姉か妹)と結婚することによって、王位を継承できるのです。先述したハトシェプスト女王を例に取ってみると、トトメス1世の娘であるハトシェプストが王位継承権を持ち、彼女と結婚したトトメス2世がファラオとなり、この間に生まれた女性と結婚したトトメス3世(トトメス2世と他の女性との息子)がファラオとなったわけです。
 「ネフェルティティの胸像」は彫刻家トトメスによって作製されました。ネフェルティティを恨んでいたのか、この胸像は見る角度によって、とても醜く見えるように彫刻されています。有名で、すばらしい宝物なのですが、発見したドイツ発掘隊が持ち帰ってしまったため、今ではドイツに展示されています。
 「黄金の玉座」はツタンカーメン王墓から発見された宝物です。ここには、ツタンカーメンとアンテセナーメンが描かれています。カイロ博物館に展示されています。

 次のファラオは、先述したティイの兄、アイ王です。また、イクナテンからこのアイ王まで、アテン神信仰の時代として、王名表から抹消されています。そして、アイ王の次のファラオ、王名表でいうとアメンヘテプ3世の次のファラオは、ホルエムヘブ王です。彼は将軍であったため、軍事クーデタによる王位奪取があったと考えられています。ともかく、ここで第18王朝が幕を閉じ、第19王朝へと移行するわけです。

Fラムセス2世
 第19王朝は、ラムセス1世から始まり、セティ1世が王朝を引き継ぐ頃から猛々しい時代となります。この頃になると、長女の王位継承権という考えは廃れ、第一王妃を好きに決め、わが子に王位を譲るようになります。好戦的で外交を重視したセティ1世ですが、このような時代背景の中で、次にファラオになったのがラムセス2世です。
 ラムセス2世は紀元前1270年頃即位し、以後67年間在位します。この在位期間はペピ2世の90年間在位についで2番目に長い在位です。
 ヒッタイト(ムワタリッシュ王)との戦争であるカデシュの戦いは世界史上でも有名です。この戦いについては、エジプト側の記述では「不意をつかれるが逆転勝利」とされていて、「ヒッタイトの兵に囲まれたが、私は敵中2500台の戦車に突撃した。アメン神のご加護の下、敵を蹴散らかし、さらに1000台の追軍も撃破した」とも壁画に刻まれています。これは、権威のためだけではなく、国内に檄を飛ばす意味もあったと考えられています。一方、ヒッタイト側では「全面勝利」と記述されており、結局、西アジアにアッシリアが出現したことにより両国は和平条約(史上初)を結び、停戦という形で戦争は終わります。
 また、ラムセス2世は建築王とも言われ、アブ・シンベル神殿やラムセウム(葬祭殿)の建設、カルナク神殿(第12王朝以降の歴代王が、アメン神に捧げる神殿として増築)やルクソール神殿(ほとんどはアメンヘテプ3世とラムセス2世が建設)の増築にも着手し、また、王妃ネフェルタリのためにアブ・シンベルに小神殿も建設しています。
 ラムセス2世の第一王妃はネフェルタリといい、8人いたといわれる妻の中でも、ラムセス2世のネフェルタリに対する盲愛ぶりは遺跡からもよくわかります。エジプトを歩いていると分かるのですが、ルクソール神殿などラムセス二世像の左足にネフェルタリが寄り添っています(ひざ下くらいの大きさ)。このように王妃が表舞台に刻まれるのは異例です。特にすごいのはアブシンベル小神殿。エジプトの南・ヌビアを牽制する意味もあり、エジプト最南端に建てられた神殿で、神殿の入り口に巨大な4体のラムセス2世が座っていて、その壮大さからも有名な遺跡なので知っているかもしれません。その隣に建てられているのが、小神殿。これは、ネフェルタリの神殿なのですが、王妃のために神殿が建てられることはまずありません。ラムセス2世はそれほどネフェルタリを大切に想い、愛していたわけです。
 アブ・シンベル神殿について少し触れておくと、この神殿は1950年代のアスワン・ハイダムの建設により、ナセル湖の湖底に水没してしまうこととなりました。そこで、ユネスコが救済キャンペーンを実施し、大規模な国際協力の下で、解体作業が行われ、100メートルほど北西のいまの場所に移されたのです。巨像の首をよく見ると、ブロックに切り取られたのがわかります。そして、この神殿、実は巨像の奥の神殿の上がドーム型になっていて、そこでハイテクを駆使した湿度調整をしています。神殿の横からここに行けますが、作り物という感じがしてしまうので、行かない方がいいと思います。

 次のメルエンプタハ王の時代にモーゼの「出エジプト」があったといわれています。その後、第20王朝において、ラムセス3世から11世までその名が引き継がれていきますが、ラムセス2世とは何の関係もありません。
 紀元前1070〜700年頃、王朝でいえば第21〜25王朝にかけてが、第3中間期で、このうち第21王朝がタニス朝です。このころファラオのミイラ隠しが行われました。ミイラ隠しというのは、王墓の盗掘が頻繁に起こっていたことを懸念して、神官たちがファラオのミイラを掘り起こし、他の場所に移したことをいいます。ディール・アル=バハリからはセケネンラー2世・トトメス3世・セティ1世・ラムセス2世などが、アメンヘテプ2世王墓からはトトメス4世・アメンヘテプ3世・メルエンプタハ・セティ2世などのミイラがまとめて発見されています。
 紀元前700年、第25王朝の頃、エジプト全土が再統一され、末期王朝時代を迎えます。その後、紀元前343年頃、第30王朝において、エジプト人によるエジプト支配は完全に終わりを告げ、それと共に古代エジプト世界が幕を閉じました。

Gアレキサンダー大王
 アレキサンダー大王は正式にはアレキサンダー3世といい、マケドニア王国の王子でした。13歳の時からアリストテレスに学び、16歳にして「アリストテレスから学ぶものはもう何もない」と言いきるほどの天才でした。
 その後、マケドニア隣国に侵攻していたペルシア国王ダレイオス3世打倒のため立ち上がりました。こうして、紀元前332年、エジプトからペルシアを追放してエジプトを解放し、彼自身エジプトの思想やトトメス3世の業績に出会い、大きな影響を受けたと考えられています。そして、アレキサンドリアを建設し、ナイルの氾濫を調査しました。
 ちなみに、「アレキサンドリア」というのは、アレキサンダー大王が建設した街のことをいい、当時は至る所にアレキサンドリアという都市が存在しました。現在残っているのがエジプトのアレキサンドリアのみだというだけです。
 彼は、世界征服を目指してインドへ向かいますが、その途中、32歳という若さでマラリアで死んでしまいます。
 将軍だったプトレマイオスは、アレキサンダー大王の後継者争いの中、その遺体をもってエジプトへ行き、彼をメンフィス(カイロのあたり)に埋葬して大王の息子フィリップ4世とともに自国宣言をします。こうして彼はプトレマイオス1世として、プトレマイオス朝を築きあげました。彼はエジプト文化を尊重しつつ、ギリシア文化との融合をはかりました。これはアレキサンダー大王の目指していた理想を受け継ぐものであり、エジプト人たちの信頼を得ることにもつながりました。こうして、アレキサンドリアという街は、プトレマイオス朝のファラオたちのもとで、経済的文化的発展を遂げ、地中海世界の中心都市として繁栄してゆくことになるのです。時代的にはギリシャ時代です。

Hクレオパトラ
 私たちが知っているクレオパトラは「クレオパトラ7世」のことで、プトレマイオス12世の娘です。クレオパトラは父プトレマイオス12世の遺言によって、弟のプトレマイオス13世と共同統治をしていました。しかし、その3年後(紀元前48年)幼いプトレマイオス13世の後見人であった教育係テオドトス・陸軍司令官アキラス・宦官ポティノスの陰謀によってクレオパトラは追放されてしまいます。
 そんなときクレオパトラが目を付けたのがカエサルだったのです。彼を味方にして、プトレマイオス13世に共同統治を進言し、彼ら反対派とアレキサンドリア戦争を起こします。プトレマイオス13世は死に、14世と共同統治をすることとなります。
 その後、クレオパトラはカエサルとの間にカエサリオンをもうけますが、エジプト思想との出会いによって王制を確信したカエサルは、ローマ帝国建国による独裁政権から市民の反感をかって、その後、ブルートゥスに暗殺されてしまいます。あの「ブルートゥス、おまえもか!!」の場面です。
 クレオパトラは今度は、カエサルの腹心の部下だったアントニウスを味方にエジプトの支配者となり、カエサリオンを王位継承者とし、エジプトの領土を回復しました。しかし、アクティウムの海戦でアントニウスが敗れると、クレオパトラも死を覚悟し紀元前30年頃、コブラに首をかませて自殺してしまいました。
 こうして、プトレマイオス朝が滅び、エジプトはローマの属国となりました。ローマ時代の始まりです(ギリシャ時代と合わせてグレコ・ローマン時代という)。実質的には、このときをもって、古代エジプトの歴史が幕を閉じたと言ってもいいでしょう。血は違っても、古代エジプトの思想を受け継ぎ、また、それを再興しようとした人々がいたからです。

 以上が古代エジプトのおおまかな歴史の流れです。「古代エジプト」に的を絞りましたが、すべて紀元前の話です。クレオパトラが死んで30数年後にキリストが生まれ、その150〜200年後が卑弥呼や三国志の時代。そう考えると世界史って面白いですね。

以上