1997年5月のASEAN臨時外相会議でラオス・ミャンマーとともにカンボジアを加盟に押し切ったのは、「孤立よりも取り込むことで改善を促す」というASEAN外交の原則とASEAN創立30周年に十カ国体制(「ASEAN10」)を実現させたいという思惑があった。それでも、同年7月10日、ASEAN(東南アジア諸国連合)は議長国マレーシアのクアラルンプールで緊急外相会議を開き、カンボジアのASEAN加盟延期を決定した。独裁型の指導者が多いASEANで、首脳による重い決定を外相レベルで覆すのは異例中の異例である。マレーシアのアブドラ外相は、ASEANの基本原則である内政不干渉の立場からフン・セン氏の「政変」に違法性はないとしながらも、あえてこの時期にカンボジアの加盟を急ぐのは得策ではないという考えから、加盟延期の理由を「武力行使による政治情勢の劇的な変化」だと説明した。確かにカンボジア情勢をめぐる思惑や利害は加盟国それぞれによって異なる。フン・セン第二首相を支え続けたベトナム、ラナリット第一首相やポル・ポト派と関係の深かったタイ、「ASEAN10体制」をあきらめきれない議長国マレーシア・・・
しかし、フン・セン派の軍は民衆からの略奪物を戦車に乗せて街を凱旋し、ラナリット派関係者の大量逮捕に乗り出している。こんな状況を容認することは出来ない。ベトナムや中国などかつて深い関係にあった国も、混乱を望んではいない。カンボジアの和平合意は総選挙を通じた民主政治の実現が目標であり、言論の自由や政治活動の自由が保障されないのでは根本的な解決とはいえないのである。
以前、フンセン第二首相は加盟問題
に対して「今回の行動はクーデターとはいえない。憲法も王制も国会もそのままだし、ラナリットは自分で政府を見捨てたのである。」と武力行使の正当性を主張していた。それだけに、加盟延期が決定してうろたえもしたが、「ASEANが内政干渉をするなら、こちらから加盟を断る。」と述べ、国際的認知よりも国内での権力強化を優先する姿勢を明らかにした。国際社会の反発を無視してまで国内の掌握を目指すフン・セン氏だが、加盟延期でイメージ低下のみならず、ようやく増加に向かい始めた海外からの直接投資や貿易への影響も避けられない。
一方のラナリット氏は、フンシンペック党内で孤立化している。ラナリット氏の側近中の側近だったシェムリアップ州知事のトン・チャイ氏らはフンシンペック党の分派
を旗揚げし、ラナリット氏の解任を決議したし、国内に残された党幹部の多くはフン・セン氏との協調に傾いている。ラナリット氏への不満は連立政権樹立直後から存在していた。1993年の総選挙後に主要ポストに就いたのは内戦時代に外国に逃れていた「背広組」ばかりで、国内でゲリラ戦を指揮していた幹部には冷遇されたという思いが残り、当の「背広組」でさえもラナリット氏の政治力のなさに懸念を深めていった。フン・セン氏への無条件の妥協。それを批判したサム・レンシー元財政経済省の追放。党事務総長のシリウッド前外相がフン・セン氏暗殺計画に関わっていたとして逮捕・国外追放されたときも、「無実」を主張する彼を守らず、フン・セン氏と衝突を避けているのかと思えば、次総選挙を背景にフン・セン氏批判に転じ、「連立離脱」まで口にした。ポル・ポト派の取り込み、「警護部隊強化のため」の武器輸入などなり
ふり構わずである。これでは、党内孤立も仕方がない。
さてASEAN加盟延期に話を戻すが、カンボジアの加盟を押し切ってしまうと、フン・セン第二首相の事実上のクーデターを承認し、ラナリット派とフン・セン派との内戦状態に拍車をかけかねないし、1991年のパリ和平協定をASEANが破壊することにもなる。今後の対応として、ASEANは連立政権の枠組みが整っていればラナリット氏に固執しない主旨の発言をした。また、北京で療養中のシアヌーク国王に特使を送るという内政干渉とも受け取られかねない選択をしたのも、和平貢献を狙ったものだろう。確かに「ASEAN10体制」実現を見送ることになったが、ASEANとしては、成長潜在力の大きいラオス・ミャンマーの加盟を確認できた実利は大きい。フン・セン氏も「状況が好転すれば今年末までの加盟が認められる」と年内加盟の期待をのぞかせた。