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<いつ?どこヘ?だれと?帰りは何時?>

 1997年、学年末のテストをひかえ、寒さ一段と厳しく感じられる1月半ばのことでした。私が帰路歩みを速めているところに、ひとりの今年度卒業を予定しているつもりの男性K氏と、ばったり出くわした。「オレ、こんどさあ、アフリカ行くんだけど。」「ああ、いいですねえ。」「お前も行く?」「ああ、行きますよ。」結局3人のパーティーとなった。K氏と、今年度卒業をしないつもりでロシア語のテストを受けなかったO氏と、私である。実はもう一人、たちの悪い男S氏が興味をしめしていたが、早稲田大学のエジブト調査隊の一員としてかの地へ赴くことなった。この春ピラミッドの頂上部分が見つかったという、あれである。おめでとう。

 かくして私は、テストの合間をぬって大手町まで注射を打ちに行った。l週間ずつ間を空けて、計3回。コレラと黄熱病である。飛行機のチケットは国内で買うよりも安いというので、バンコクで買い足すことにした。よって、バンコク往復60日オープン。私たちとアフリカをつなげるものは、2枚のイエローカードと、とりあえず取っておいたケニアのビザのみであった。しかも、予防接種の実行期日には未だ至っていなかった。豆まきの余韻の残る如月のはじめである。

 旅に出た。

 ケニアからジンバブエまで少ない日数で移動できたのは、本当に運がよかったとしか言いようがない。なんせ、アフリカである。列車はいつ来るかわからない。バスはどれだけ時間がかかるかわからない。3時間で着く時もあるし、10時間かかる時もある。ポレポレ(ゆっくり)である。

 実際ムベヤから列車に乗ろうとした折、ガイドブックではその日正午頃出発するような記述であったが、町の人間に聞くと9時に出ると言う。急いで駅まで(タウンから約5km)行くと、駅員は今日は列車は走っていないから外でバスを待てと言う。結局バスで国境まで行ったが、そこでは運よくちょうどカピリ・ムポシ行きの列車が出るところであった。この列車についても到着は、闇両替の少年は翌日の14時頃、乗客は翌10時頃、鉄道職員は翌朝8時頃と答えたが、実際は翌日の13時半頃であった。ポレポレである。

 ちなみに、アフリカのガイドブックについて。はっきりいって数は少ない。使えるものは「地球の歩き方」、「ロンリープラネット」などに限られてくる。しかし時代は移るもの。内容と実際は、かなりかわっている。一番の情報源は、なんといっても現地で出会う旅行者。ナイロビではイクバルホテルまたは道祖神(現地旅行代理店)に行けば、必ずといってよいほどひとりは日本人がいる。彼は今まで蓄積されてきた情報を快く伝えてくれるであろうし、そして、我々は再び新しく来るであろう人に対し同様に伝えていくのである。特にカイロ辺りの日本人個人旅行者は皆自分の殻を守りながら生活しているのに対し、ナイロビの人間は同じ宿の者がどこから来てどこへ向かうのか、またいつのどの飛行機で帰るのか皆知っている。ここでは情報が改めて貴重であると感じさせられる。また、各宿の伝言板も大活躍である。気候についても、よく「ナイロビの気候は夏の軽井沢と同程度」といった表現が使われる。確かに一日の平均をとってみると、そうなるかもしれない。しかし、やはりそこは赤道直下で、いくら標高が高いとい っても昼間は署い。海抜があるというのは、それだけ太陽に近いということ、気温はだいたい35度近くまでは上がることも。ただ、湿度が低いぶんまだ生きていける。逆に夜は冷えて、15度を下回ることも。(実際私が体験したのは、2〜3月の季節であるが)風荒むサファリ・マサイ村のテントの中は体感温度5度。そこには、新聞紙に包まる日本人のすがたがあった。

最後に一言。海外旅行におなかの不都合はツキモノである。デリケートな私は当然然り。帰国の際、成田ではアジア・アフリカなどを廻った者に対し、病原菌等から身体の調子にづいての問診が行われる。疑いのある者には検便等の検査も行われる。私は思った。「かなり、やばい」私はこの時期時間がなかった。隔離されて時間を費やすことはできなかったので、私は係員の質間に対し笑顔で答えた。「はい、元気です。」



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