パルミラへ

9/2(日)

 空港に着いて、まずはダマスカス市街地へと向かった。この日は荷物だけを宿においてパルミラに向かう適当な予定を立てていたのだが、朝3時では全く宿が見つからなかった。たまたま道で出会った西洋人(フォルダーと名乗っていた)男性も同じく宿を探していた。
 「こっちの方はここら一帯一部屋も空いてないぞ」
 「ぼくが来た方も同じです。」
失望しつつも最後の望みをかけた「スルタンHOTEL」も満室だったので、翌日(つまりその日の夜)の予約を入れて、ついでに荷物を預かってもらうことにした。

朝4時を回ろうとしていたが、ナップサックひとつで身軽になったぼくは、路上に止まって眠っているタクシードライバーに「パルミラに行きたい」と頼んでみた。
 「は?何を言ってるんだい?パルミラホテルかい?」
 「パルミラです。北の方にある遺跡の。」
 「ムリムリ。遠すぎるよ。バスが出てるから、バス停まで連れてってやるよ。」
 「え?バスですか?今、この時間に走ってるんですか?」
 「今走ってるよ。」
 朝4時。信じがたいが、かといって行くあてもないので連れていってもらうことにした。シリアは市内の相場がほとんど固まっていて(といっても、tourist priceだが)、しかもふっかけてくる国民性ではないようだ。結局、試みた交渉は不発に終わり、200シリアポンド(約500円弱)かかってしまった。バス停に着いたが、バスの出発は6時だった・・・パルミラまではバスで120ポンド(300円弱)、3時間。絵に描いたような一本道を走り抜けながら、ぼくはほとんどの時間を眠って過ごした。バスを降りると、一人の男が寄ってきた。こういうあたりは、どこの国でもワンパターン化している・・・「パルミラは広いからタクシーでいろいろ回ってやる」と。行き当たりばったりだったので、少し情報をもらおうと思って、嘘か本当か分からない話を聞いてみることにした。結局「三兄弟の墓」「エラベール家の塔墓」など、1〜2キロ離れた場所へ歩くのは時間的にきつかったし、観れる時間帯が午前と午後で区切られていたので、彼に身を委ねることにした。今振り返ってみると、話の内容に嘘はなく、効率的で助かったと思う。 さて、「エラベール家の塔墓」と「三兄弟の地下墓室」へ向かった。貴族の墓らしい。「三兄弟の地下墓室」はそれぞれの空間に人が通れるか通れない程度の隙間があって、そこに板を差し込んで一族を埋葬(風葬)していたらしい。縦一列に6人程度なので、一部屋にかなりの人が埋葬されていたと思われる。それにしても、風葬というのが少し怖いが、ミイラや骨はまったくなかった。壁画、彫刻、石窟、墳墓・・・これまで見てきたどれよりも特徴がなくて、何の感銘も受けないぼくがいた。

 その後、ベル神殿へ。ここはシルクロードの隊商都市「パルミラ」にある、豊穣の神を祀る神殿である。エジプト的な、ギリシャ的な、そんな雰囲気だったが、何よりも印象的だったのは青い空だった。

 ベル神殿を出たところで、日本人バックパッカーふたりの男性に出会った。ひとりは14ヶ月ほどで50ヶ国をまわっていると言っていた。彼に聞いた話の中で「クラック・デ・シュバリエ」という城の話があった。あの天空の城ラピュタのモデルとして、有名だそうだ。

 彼らと少し話した後、途切れ途切れに立ち並ぶパルミラの列柱の中へ。記念門から円形劇場を抜けて、四面門へ。その先は地図ほど整備されておらず、ところどころ修復しているものの、残骸の山と言った方がいいかも知れない。広大な敷地で残骸を飛び越えて進むイメージだ。1時間ほどプラプラ歩いてみるが、その後、小高い丘にあるアラブ城へ例のタクシーで連れていってもらった。目的は城ではなく、ここからパルミラを見ること。

  壮大だった。パルミラのすごさはひとつひとつではなく、このコンプレックスなんだと思った。紀元前1世紀から栄え、後2世紀に最盛期を迎えた、シルクロードの隊商都市パルミラ。丘の上からこの壮大なパノラマを眺めながら当時に思いを馳せたとき初めて、この遺跡を感じることができた。バスターミナルまでの道で、奈良県発掘隊のところに連れていってくれた。発見した墓に日本語で石版が掘られているのは面白かった。 ダマスカスへの帰路は、再びバスで。19時頃着。ダマスカスのバスオフィスで翌日のチケットを買って、荷物を預けていたスルタンHOTELへ戻った。

 しかし、ここで一日を終わらせるわけにはいかなかった。パルミラで出会った日本人パッカーの言葉に揺れて、明日はクラック・デ・シュバリエ(ラピュタのモデル)城に行くことにしていたのだ。さっき買ったチケットはその経由地ホムス行きのバスチケットだった。翌朝6時発のバスだが、疲れを厭わず、そのままオールドダマスカス(旧市街)へ向かった。ホテルから歩いて10分ほどだ。見えてきた城壁はイスラエルに迷い込んだかのようななつかしい雰囲気を醸し出していた。地図さえ持たず手ぶらだったので、わけもわからずとにかく門から中に入ってみた。あとで地図を見てわかったのだが、「ハミディーエ」というスーク(市場)だったが、「ヤバーニー(日本人)、ヤバーニー」と言って寄ってくるエジプトのような雰囲気は全くない。喧騒の中だが、一人静かに歩くことができた。 本当は、新約聖書に出てくる「まっすぐな道」に行きたかったのだが、Tell me the way to "Straight Street"? と聞いても、「ここだよ、それは」と言われてしまう。確かに道はまっすぐだ。地図を持っていないぼくには、ここが「Straight Street」なのか、単なるまっすぐな道なのかわからず、信じて歩くことにした。結局、単なる道であることを後で知り、翌日「まっすぐな道」へ行くことにするのだが・・・

 さて、イスラエルの旧市街とは似て非なるものであることは言うまでもない。歴史的にはイスラエルの旧市街は、「岩のドーム」、「嘆きの壁」、キリストが張り付けにされるまでの道「ビア・ドロローサ」、聖墳墓教会など、宗教色の濃いものである。 一方、4,000年もの古い歴史を持つダマスカス(シリア)という古代都市。そこにある旧市街も歴史は古く、1世紀のローマ軍による城塞の建設から始まり、13,4世紀に十字軍が現在の形にしたようだが、イスラエルと比較して戦争色が濃い気がする。いずれにせよ宗教が深く絡んでいることは間違いないが・・・ 旅行者にとっての違いは、城塞の中の造りにあると思う。イスラエルの旧市街は、ホテルから学校まで一つの街を形成(宗派によって大きく四分されるが)しているのに対し、シリアの旧市街にはホテルはなく(見あたらなかった)、旅の拠点にはなり得ない。どちらかにもう一度行けるなら、ぼくは迷わずイスラエルの旧市街を選ぶだろう。

 ホテルに帰ったのは22時頃。シャワーがやけに気持ちいい。明日5時起き。横になったとたんに眠ってしまった。

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