<少年>

  「森本こっち」

  「こっちが登りやすい」

  「ここからいい写真が撮れる」

 アンコール・ワットで出会った少年は、こんなふうに日本語で話しかけてきた。ついつい英語で返してしまったが、日本語の方がわかるらしい。日本語を勉強していると言っていた。日本人相手のガイドになりたいらしく、いろいろと案内してくれた。とてもいい子だった。

  「日本語が上手だね。どうして勉強してるの?」と僕は尋ねた。

  「日本人のガイドがしたいから」

  「そっか。じゃあ今度僕が来たときガイドしてよ」

 「またいつかここへ来よう。」そう思っていた僕は、彼に紙を渡して言った。

  「君の名前と住所を教えて」

  「わかった」

 彼は“ポール”という名前だけを書いた。カタカナで。

  「住所も教えてよ」

  「ない・・・」

  「どこに住んでるの?」

  「ここ(アンコール・ワット)」

  「え?」

 家がないんだとわかった。

 「お父さんとお母さんも・・・ここに住んでるの・・・?」

 彼は言葉を詰まらせた。殺されたのである、ポルポト派に。僕は苦しくなった。

 「ポール」という西洋的な名前は誰かが付けたんだろう。カタカナでどう書くかは自分で勉強したんだろう。「ポール」は日本語を勉強する本が買いたいと言っていた。「ポール」には家族がいない。住む家がない。本を買うお金がない。でも彼は一生懸命生きている。「日本人相手のガイドになりたい」というすばらしい夢を持って。この少年の人生観は僕のそれとは明らかに違う。自分を見つめ直す旅となった。

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