「新体制」の容認

 カンボジア国会で8月6日に開かれた本会議には、定数120人のうち定足数84人を大きく上回る99人が出席した。本会議では、まず非公開でラナリット第一首相の議員不逮捕特権の停止を決議し、賛成99・反対1で採択した。そして、第一首相の交代には、定数の3分の2以上である80人以上の賛成が必要であったが、ウン・フォト氏就任の賛成票は86票で、事実上「フン・セン体制」が発足し、1993年5月の総選挙で誕生したフンシンペック・カンボジア人民の両党を軸にした連立政権と「一国二首相」制が形の上では維持され、7月初旬の武力衝突から続いた混乱は国内的には一応収拾に向かうとみられている。ただ、第一首相の就任にはシアヌーク国王の承認が必要であり、ウン・フォト氏も「私は国王を心から尊敬している。国民はみんな国王の息子だ。」と語り、その承認を得たい考えを明らかにした。

 ウン・フォト氏は、7月のクーデタの危険を察知してフランスに逃げたラナリット氏に同行したが、氏の懇願を振り切って単身帰国してきた。第一首相候補に擁立されたときは「尊敬するラナリット殿下より国が大切」と言いきった。

 腐敗の陰がつきまといがちなカンボジア政権で「クリーン」を売り物にできる数少ない政治家のひとりであるウン・フォト氏は、1945年3月2日産声を上げる直前に生家近くに墜落した日本軍飛行機パイロットの生まれ変わり、つまり「自分は前世で日本人だった」と信じている。フォト氏はプノンペンのフランス語系商科大学で会計学を学び、二番の成績で卒業、その後オーストラリア政府の奨学金でメルボルン大学に留学し、74年に経営学修士号を取得した。祖国カンボジアがポル・ポト時代を迎える前年のことである。フォト氏は帰国の機会がないまま、76年にテレコム・オーストラリア社に就職した。しかし、困惑する祖国が気になって、オーストラリア在住カンボジア人で「自由戦線」を結成。82年にフンシンペック党(シアヌーク当時殿下の派)に加わった。91年、「趣味のランだけを作っていればいいのか」というラナリット氏の言葉で出馬を決意し、93年の総選挙前にラナリット氏の説得で国会議員になった。フォト氏の周囲の評価は「何事にも楽観的」であるようだ。そして、「敵を作らない」性格が裏目に出るという指摘もある。

 さて、このウン・フォト氏の選出には「カンボジア民主連合(ラナリット派の国会議員組織)」、ポル・ポト派の地下放送、アメリカ(米国大使館報道官の見解)、ソベール副議長(ラナリット派。国外に逃亡中)らが否定的で、「民主的ではない」「非合法だ」と非難している。ASEANも性急な結論は避け、8月11日に特別外相会議を開いた。その会議でも「ASEANは今後もカンボジアの安定回復を手助けすることで合意し」、ASEANの調停継続の方針を明らかにしたにとどまり、「新体制」容認の結論を出さず、直接当事者が出席する非公式会議の開催の可能性を検討することに決めた。これは、ASEANがラナリット氏とのパイプを保ち、ラナリット派議員の安全な帰国や公正かつ自由な総選挙実施の公約を守るよう、フン・セン氏に無言の圧力をかけるためであろう。

 一方で、シアヌーク国王は国家元首代行のチア・シム国会議員にウン・フォト第一首相の容認判断を一任した。そして、この署名によって新体制が発足したわけだが、国王の直接の容認ではないうえ、国際社会にはなおラナリット氏を支持する声も強いため、先行きは不透明である。さらに8月11日、シアヌーク国王が「フン・セン第二首相が同意すれば退位する用意がある」との書簡を公表するとともに、近く(国王として)帰国するという声明を発表した。この一見矛盾した「退位」と「国王としての帰国」は、翌12日の北京での会談(ウン・フォト第一首相とフン・セン第二首相と)前の新体制への影響力保持を狙った戦術であろう。

 フン・セン第二首相が主導する新体制固めはウン・フォト第一首相の任命で一区切りついたと言えようが、シアヌーク国王の認知もはっきりないまま暫定色の強いものとなってしまっているのは否めない。1998年5月の総選挙が国際的に「自由で公正」と認められるまでは「暫定政権」から逃れられそうもない。

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